革命家の生き様 /
カストロ
フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz、1926年8月13日 - )は、キューバの前国家元首で政治家、革命家、軍人、弁護士、元アマチュア野球選手、社会主義者。アメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。
1965年以来キューバ共産党第1書記。キューバ共和国の前・国家評議会議長兼閣僚評議会議長(首相)。閣僚評議会議長は国家評議会議長が兼ねることになっているので国家評議会議長退任で閣僚評議会議長も自動的に退任。日本国内においてはカストロ前議長と呼称されることが多い(日本のマスコミ、特に新聞報道では、カストロ氏が元首に就任して以降も長年の慣例からか1993年あたりまで肩書を元首呼称である「カストロ議長」ではなく「カストロ首相」と呼称していた。ただし、首相にあたる役職を兼務していたので間違いではない)。
2008年2月19日、共産党の機関紙グランマ上で、国家評議会議長と軍最高司令官を引退する意向を示した。そして2008年2月24日、ハバナの国際会議場で開催された人民権力全国会議で国家評議会議長の退任が決まった。
カストロはスペインのガリシア人移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギツの息子としてマヤリの近くのビランで生まれた。ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学し法律を学ぶ。大学では政治活動に参加、革命反乱同盟(UTR)に加入する。ギャングにも身を置き、敵対する学生運動のリーダーを射殺するなど「ゴロツキと天才が同居した男」と、周囲から呼ばれた。
在学中の1948年には、投手としてメジャーリーグ選抜と対戦、3安打無得点に抑える。1950年に大学を卒業した。
卒業後、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。カストロはオルトドクソ(保守)党から1952年議会選挙に立候補したが、フルヘンシオ・バティスタ将軍の率いるクーデターはカルロス・プリオ・ソカラスの政府を倒し、選挙の結果は無効となった。その後、カストロは憲法裁判所にバティスタを告発した。請願は拒絶され、カストロは裁判所を糾弾した。
武装闘争
この後カストロは武装勢力を組織し、1953年7月26日に、130名の同志とともにオリエンテ州のモンカダ兵営に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死に、カストロは逮捕され裁判で、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄される。獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。1955年5月に恩赦によって釈放され、2ヶ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移り活動を続けた。
1956年12月、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でメキシコから多くの他の亡命者と共に秘密裏にキューバへ帰国した。それらは「7月26日運動」と呼ばれた。その時点でカストロはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。キューバ革命後の1959年後半にカストロはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。
「7月26日運動」の最初の行動は1956年12月2日にオリエント州で始まった。しかし激しい戦闘でオリジナルの82人のうちの18人だけが生き残りシエラ・マエストラ山地へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル・カストロ、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。カストロの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。1958年5月24日にバティスタはカストロの軍に対して17の大隊を送り出した。数字の上で圧倒されていたにもかかわらず、カストロの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。1959年の元日、カストロの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外逃亡し、カストロの軍はハバナを指揮下に置いた。
国家元首として
他の社会主義政権の元首に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは、前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避するためと言われている。ただし、革命の同志であるチェ・ゲバラの巨大な銅像をサンタ・クララに建てている。
アメリカとの対立とソ連との友好関係
1959年1月の革命により全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認、カストロは2月に首相に就任する。しかしながら新政府はアメリカ企業の財産を没収、国有化の政策を行い、アメリカとの関係は日増しに悪化する。カストロは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領のリチャード・ニクソンと会談する。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は「ゴルフ中」であったという弁解を行ったことからも、当時アメリカがカストロを軽視していたことが窺える。
同年12月に、アメリカ国家安全保障会議は「容共的かつアメリカにとって不利益をもたらす」としてカストロ政権転覆を決定。シーザー暗殺に因んで「ブルータス作戦」と呼ばれた。いわゆる「ピッグス湾事件」もこれに含まれる。その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が立案されるが、全て失敗に終わった。
キューバ国内のアメリカ系石油精製所が石油の供給を拒否し、キューバは1960年2月にソ連から石油を購入する協定に署名した。アメリカはキューバと国交断絶し、アイゼンハワー政権の間にキューバはソ連との関係を深める。カストロとニキータ・フルシチョフ首相との間で様々な協定が調印され、キューバはソ連から大量の経済・軍事援助を受け取り始めた。
フルシチョフの回想録によると、彼は1962年の春にクリミア半島で休暇をすごしている間に、アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。フルシチョフはこの考えを現実化するためにラウル・カストロ率いるキューバの代表団と会談し、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。アメリカのU-2偵察機が1962年10月15日にミサイル発射装置の建設を発見し、アメリカ政府は1962年10月22日にその事実を公表、キューバに向かう船舶の臨検を行い海上封鎖を実行する(キューバ危機)。
フルシチョフはアメリカがトルコからミサイルを撤去するのと引き替えにキューバからミサイルを撤去することに合意した。緊張が緩和された後もキューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。カストロは、アメリカを敵視する一方で、アメリカと妥協したソ連に対しても不信感を募らせた。ただしソ連との友好関係は、キューバの重要な政策であったから、断交にまでは至らず、フルシチョフ失脚後のチェコ事件によるソ連軍侵攻に理解を示し、カストロはソ連に対する不信感を解消した。しかし、このようなソ連への態度が、チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になった。
その後1990年代に入りソ連が崩壊し、冷戦が終結したことによってソ連との関係は薄れたものの、アメリカとの関係についてはキューバ側が積極的に関係改善を目指してはいるが、その後も今に至るまでフロリダ州などを中心に大きな影響力を持っているキューバ系アメリカ人財団など反カストロ派キューバ人のロビイストの影響を受けているアメリカの保守派が経済制裁を解こうとせず、かたくなな態度に終始している。
中南米諸国との関係
1971年には米州機構の慣例にもかかわらず、社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領となったチリがキューバと外交関係を再確立する。カストロはチリへの1ヶ月にもわたる訪問を行った。訪問中にアジェンデ大統領との大きな関係と公的な助言を与え、西側諸国からは「チリの社会主義化への道」と見なされた。
その後1990年代初頭の冷戦終結まで、アメリカの後押しを受けた軍事独裁政権がその大勢を占めた殆どの中南米諸国と関係が悪かったものの(メキシコなど一部の国としか交流がなかった)、冷戦終結に伴う軍事独裁政権の崩壊後は、ペルーなど多くの国と国交を回復した。
また、中南米諸国に対しまるで宗主国さながらに振る舞い続けるアメリカの外交政策と、アメリカによる軍事独裁政権へのあからさまな後援を嫌う多くの中南米の多くの国民からは、カストロのアメリカへかたくなに対抗する姿が、容共、保守の別を問わず、内外で高い共感を得ているといわれている。
ヨーロッパ諸国・カナダとの関係
1976年、当時のカナダ首相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず西側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を行い、カストロと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの支援として400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を行った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議長の長命と、キューバ、カナダ両国民の友情を祈る」と話した。
トルドーとカストロの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から90年代にかけてキューバを数度訪れている。カストロは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。
中華人民共和国との関係
革命直後、同じ社会主義国家である中国との友好を図り、ゲバラらが中国を訪問し毛沢東らと会見しているが、中ソ論争が激しくなるとソ連寄りのキューバと中国との関係は悪化し、さらに中国は貿易問題と政治問題を結びつけてきたためカストロは中国政府を「強盗」と批判し、以後は対立関係にあった。
1970年代に起きたアンゴラ内戦ではキューバが政府側を支援して派兵したのに対し、中国はアメリカ合衆国と共同で反政府側を支援した。
経済政策
キューバ革命後直後はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努力したが、カストロを「容共的」と避けたアメリカとの関係を見限りソ連と接近し、同時にユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの大企業の農園やハバナに立ち並ぶカジノホテル(その多くがアメリカ政府と密接な関係を持つマフィアの持ち物であった)などのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推し進めたために、アメリカはキューバとの断交と経済制裁を発動し、それに対抗するようにソ連はサトウキビと石油のバーター貿易(事実上の経済支援)などを通じてキューバ支援を行った。
その関係は1991年のソ連崩壊まで続いたものの、ソ連崩壊により冷戦が終結したことでバーター貿易も経済支援もストップしたため近年は深刻な経済状態が続いており、その為にいかだ等を使用して経済亡命する事件が後を絶たず、カストロのみならず国家全体の悩みの種となっている。この様な経済面での失政から、「革命家は年金をもらってまで生きるようなことはしない。私はマルクスやエンゲルスやレーニンと一緒に地獄に落ちるだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に較べれば何でもない」と語ったこともある。
なお、革命後に土地の国有化を推進し、その一環として実家の農園も取り上げたため、実母から絶縁され、娘はアメリカ・マイアミに亡命している。
宗教政策
キューバはスペインの植民地だったこともあり、国民の大半はもともとキリスト教徒(カトリック)であったが、社会主義革命を標榜するカストロは頑なな無神論者で、キリスト教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに入れるなどの宗教弾圧政策を行った。ローマ教皇ヨハネ23世は1962年1月3日にカストロを破門した。これは1949年にピウス12世が発した法令によるものであったが、カトリック信徒たりつづけることを以前から放棄していたカストロにとってこの破門は重要な出来事ではなく、カトリック教徒によるカストロへの支援を妨害するために行われたと予想されたが、そうであったとする証拠はほとんど無い。
ヨハネ・パウロ2世とカストロの関係は以前の教皇との関係と比べると多少よかった。1992年にカストロはキリスト教徒に対する融和策を導入した。ヨハネ・パウロ2世はアメリカによるキューバへの通商停止に対して「不正で、倫理的に承諾しがたい」と非難を行い、その後バチカンとカストロの関係は改善する。カストロは1996年11月にはバチカンを表敬訪問しヨハネ・パウロ2世に謁見。事実上宗教弾圧政策を放棄した。1998年になるとヨハネ・パウロ2世がキューバを訪問する。これはローマ教皇による初めてのキューバ訪問であった。教皇は訪問がキューバにおけるカトリック教会の建設促進が目的であったと強調し、政治的問題への関係を避けたが、カトリック学校の開設許可のために政府による教育規制の撤廃と、キューバ国内の病院で行われている妊娠中絶を批判した[1]。教皇の訪問後、キューバ政府はクリスマスを再び休日とし、宗教的行事の公然実施を認めた。
2005年4月のヨハネ・パウロ2世の死去時には、カストロはハバナ大聖堂でのミサに参列した。それは1959年に妹の結婚式に出席して以来46年ぶりのことであった。ミサを指揮した枢機卿ジャイム・オルテガはダーク・スーツを着たカストロを歓迎し、「私たちの教皇ヨハネ・パウロ2世の死がキューバで心より悼まれた」ことに対して謝意を表した[2]。
亡命者問題
1980年3月28日、亡命希望者を乗せたバスがハバナのペルー大使館の門を突破した。続く48時間に10,000人以上のキューバ人が大使館に逃げ込んだ。カストロは4月20日にマリエルの港からボートで出国できることを発表する。亡命希望者達はマリエルからボートで出国を始め、彼らは「自由小艦隊 freedom flotilla」として知られるようになる。アメリカ沿岸警備隊によると、9月26日にマリエルが閉鎖されるまで、124,776人のキューバ人が出国したとされる。
マリエルから出国したキューバ人の大多数は正当な亡命希望者であったが、カストロはおよそ20,000人の犯罪者および精神障害者を出国させる機会としてこの事件を利用したとされる。
一般的なイメージとエピソード
経済政策面などでは決して評価が高いとは言えない面はあるが、私利私欲に安易に振り回されない強固な信念の持ち主として、他の共産主義国家の独裁者たちとは違って、今なお賛否両論が別れる珍しい人物である。
共産主義指導者としての批評
2006年に、アメリカのワシントン・ポスト紙の付録誌「パレード」の『世界最悪の独裁者』という特集記事で、第15位に選出されるなど、アメリカや中南米諸国においては「社会主義かぶれの独裁者」として批判を受けることも多いものの、「中南米を植民地のように扱うアメリカにかたくなに抵抗し続けるヒーロー的な存在」として、容共的な人々のみならず反共産主義者の間においても心理的な支持者が多いと言われている。
特にベネズエラのウゴ・チャベスは、フィデルを師匠のように敬愛している他、ボリビアのエボ・モラレス大統領とも友好関係にある。政治家以外ではサッカー選手のディエゴ・マラドーナと親交があり、同国出身のチェ・ゲバラと共に彼の左派発言の土台を作ったとされている。国内においても、独裁者として君臨しているにもかかわらず同様な理由からカリスマ的な人気が根強くある。 ちなみに、カストロは中華人民共和国の毛沢東のことを「クソ野郎」と呼び、キューバ危機の際自分にまったく相談せずにミサイル撤去に応じたフルシチョフが失脚したのを聞き、鏡を叩き割って罵ったと言われている。
独裁ゆえに権力に依存してしまいがちな他の独裁国家の指導者と違い、血族であるものの自らの政治指導が困難とみなすと潔く権力の移譲を表明する柔軟さを高く評価されることもある。(血族で唯一政治家である実弟のラウル・カストロはモンカダ兵営襲撃事件からの仲間である)事実、彼は非常に自分が美化されることに神経質で独裁国家によくある公共の場における指導者賛美のプロパガンダが一切存在せず、むしろ自分がTシャツのプリントや絵画に描かれることを嫌っている(ただし、彼の代わりにチェ・ゲバラを讃えるモニュメントは非常に多い)。
共産主義に対して極めて真摯な考えを持ち、自身がアメリカのフォーブスの世界長者番付、君主・独裁者部門に9億ドルの財産を持つとして7位にランクインされたことに激怒し、「気分が悪くなる報道だ。なぜ、こんなバカバカしい記事に対して、自分を弁護しなければならないのか」「もし誰かが、私の口座が国外にあって1ドルでも預けてあると証明するなら、私は議長を辞める」と発言した。アメリカのメディアはほぼすべてが反カストロであるためたびたび大病を患った、大怪我をしたなどと書かれることがある。
葉巻と長時間演説
キューバの最大の特産物で、自らの好物でもある高級葉巻を革命闘争時代から常に欠かさなかったことから、葉巻愛好家の間では象徴的な存在であった。しかし、自身の健康と、国民に禁煙の重要さを説くため、1986年に禁煙宣言を出し自ら禁煙している。なお、2006年7月31日、声明を出し、「腸に急性の問題が発生、出血が続いている」ため外科手術を受けたと発表した。
カストロは長時間の演説をすることでも有名で、数時間に及ぶスピーチも一般的だという。かつて党大会で10時間以上に及ぶ政治報告を行ったこともある。本人も自分の演説が長いことを自覚している模様で、とあるパーティでスピーチに立った際、冒頭で「大丈夫、今日は早く終わらせるから」とジョークを言い、出席者を笑わせたことがある。しかし、近年では健康状態の悪化でそうした長時間の演説をすることも少なくなっている。
1965年以来キューバ共産党第1書記。キューバ共和国の前・国家評議会議長兼閣僚評議会議長(首相)。閣僚評議会議長は国家評議会議長が兼ねることになっているので国家評議会議長退任で閣僚評議会議長も自動的に退任。日本国内においてはカストロ前議長と呼称されることが多い(日本のマスコミ、特に新聞報道では、カストロ氏が元首に就任して以降も長年の慣例からか1993年あたりまで肩書を元首呼称である「カストロ議長」ではなく「カストロ首相」と呼称していた。ただし、首相にあたる役職を兼務していたので間違いではない)。
2008年2月19日、共産党の機関紙グランマ上で、国家評議会議長と軍最高司令官を引退する意向を示した。そして2008年2月24日、ハバナの国際会議場で開催された人民権力全国会議で国家評議会議長の退任が決まった。
カストロはスペインのガリシア人移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギツの息子としてマヤリの近くのビランで生まれた。ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学し法律を学ぶ。大学では政治活動に参加、革命反乱同盟(UTR)に加入する。ギャングにも身を置き、敵対する学生運動のリーダーを射殺するなど「ゴロツキと天才が同居した男」と、周囲から呼ばれた。
在学中の1948年には、投手としてメジャーリーグ選抜と対戦、3安打無得点に抑える。1950年に大学を卒業した。
卒業後、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。カストロはオルトドクソ(保守)党から1952年議会選挙に立候補したが、フルヘンシオ・バティスタ将軍の率いるクーデターはカルロス・プリオ・ソカラスの政府を倒し、選挙の結果は無効となった。その後、カストロは憲法裁判所にバティスタを告発した。請願は拒絶され、カストロは裁判所を糾弾した。
武装闘争
この後カストロは武装勢力を組織し、1953年7月26日に、130名の同志とともにオリエンテ州のモンカダ兵営に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死に、カストロは逮捕され裁判で、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄される。獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。1955年5月に恩赦によって釈放され、2ヶ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移り活動を続けた。
1956年12月、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でメキシコから多くの他の亡命者と共に秘密裏にキューバへ帰国した。それらは「7月26日運動」と呼ばれた。その時点でカストロはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。キューバ革命後の1959年後半にカストロはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。
「7月26日運動」の最初の行動は1956年12月2日にオリエント州で始まった。しかし激しい戦闘でオリジナルの82人のうちの18人だけが生き残りシエラ・マエストラ山地へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル・カストロ、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。カストロの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。1958年5月24日にバティスタはカストロの軍に対して17の大隊を送り出した。数字の上で圧倒されていたにもかかわらず、カストロの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。1959年の元日、カストロの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外逃亡し、カストロの軍はハバナを指揮下に置いた。
国家元首として
他の社会主義政権の元首に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは、前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避するためと言われている。ただし、革命の同志であるチェ・ゲバラの巨大な銅像をサンタ・クララに建てている。
アメリカとの対立とソ連との友好関係
1959年1月の革命により全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認、カストロは2月に首相に就任する。しかしながら新政府はアメリカ企業の財産を没収、国有化の政策を行い、アメリカとの関係は日増しに悪化する。カストロは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領のリチャード・ニクソンと会談する。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は「ゴルフ中」であったという弁解を行ったことからも、当時アメリカがカストロを軽視していたことが窺える。
同年12月に、アメリカ国家安全保障会議は「容共的かつアメリカにとって不利益をもたらす」としてカストロ政権転覆を決定。シーザー暗殺に因んで「ブルータス作戦」と呼ばれた。いわゆる「ピッグス湾事件」もこれに含まれる。その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が立案されるが、全て失敗に終わった。
キューバ国内のアメリカ系石油精製所が石油の供給を拒否し、キューバは1960年2月にソ連から石油を購入する協定に署名した。アメリカはキューバと国交断絶し、アイゼンハワー政権の間にキューバはソ連との関係を深める。カストロとニキータ・フルシチョフ首相との間で様々な協定が調印され、キューバはソ連から大量の経済・軍事援助を受け取り始めた。
フルシチョフの回想録によると、彼は1962年の春にクリミア半島で休暇をすごしている間に、アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。フルシチョフはこの考えを現実化するためにラウル・カストロ率いるキューバの代表団と会談し、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。アメリカのU-2偵察機が1962年10月15日にミサイル発射装置の建設を発見し、アメリカ政府は1962年10月22日にその事実を公表、キューバに向かう船舶の臨検を行い海上封鎖を実行する(キューバ危機)。
フルシチョフはアメリカがトルコからミサイルを撤去するのと引き替えにキューバからミサイルを撤去することに合意した。緊張が緩和された後もキューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。カストロは、アメリカを敵視する一方で、アメリカと妥協したソ連に対しても不信感を募らせた。ただしソ連との友好関係は、キューバの重要な政策であったから、断交にまでは至らず、フルシチョフ失脚後のチェコ事件によるソ連軍侵攻に理解を示し、カストロはソ連に対する不信感を解消した。しかし、このようなソ連への態度が、チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になった。
その後1990年代に入りソ連が崩壊し、冷戦が終結したことによってソ連との関係は薄れたものの、アメリカとの関係についてはキューバ側が積極的に関係改善を目指してはいるが、その後も今に至るまでフロリダ州などを中心に大きな影響力を持っているキューバ系アメリカ人財団など反カストロ派キューバ人のロビイストの影響を受けているアメリカの保守派が経済制裁を解こうとせず、かたくなな態度に終始している。
中南米諸国との関係
1971年には米州機構の慣例にもかかわらず、社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領となったチリがキューバと外交関係を再確立する。カストロはチリへの1ヶ月にもわたる訪問を行った。訪問中にアジェンデ大統領との大きな関係と公的な助言を与え、西側諸国からは「チリの社会主義化への道」と見なされた。
その後1990年代初頭の冷戦終結まで、アメリカの後押しを受けた軍事独裁政権がその大勢を占めた殆どの中南米諸国と関係が悪かったものの(メキシコなど一部の国としか交流がなかった)、冷戦終結に伴う軍事独裁政権の崩壊後は、ペルーなど多くの国と国交を回復した。
また、中南米諸国に対しまるで宗主国さながらに振る舞い続けるアメリカの外交政策と、アメリカによる軍事独裁政権へのあからさまな後援を嫌う多くの中南米の多くの国民からは、カストロのアメリカへかたくなに対抗する姿が、容共、保守の別を問わず、内外で高い共感を得ているといわれている。
ヨーロッパ諸国・カナダとの関係
1976年、当時のカナダ首相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず西側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を行い、カストロと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの支援として400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を行った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議長の長命と、キューバ、カナダ両国民の友情を祈る」と話した。
トルドーとカストロの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から90年代にかけてキューバを数度訪れている。カストロは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。
中華人民共和国との関係
革命直後、同じ社会主義国家である中国との友好を図り、ゲバラらが中国を訪問し毛沢東らと会見しているが、中ソ論争が激しくなるとソ連寄りのキューバと中国との関係は悪化し、さらに中国は貿易問題と政治問題を結びつけてきたためカストロは中国政府を「強盗」と批判し、以後は対立関係にあった。
1970年代に起きたアンゴラ内戦ではキューバが政府側を支援して派兵したのに対し、中国はアメリカ合衆国と共同で反政府側を支援した。
経済政策
キューバ革命後直後はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努力したが、カストロを「容共的」と避けたアメリカとの関係を見限りソ連と接近し、同時にユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの大企業の農園やハバナに立ち並ぶカジノホテル(その多くがアメリカ政府と密接な関係を持つマフィアの持ち物であった)などのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推し進めたために、アメリカはキューバとの断交と経済制裁を発動し、それに対抗するようにソ連はサトウキビと石油のバーター貿易(事実上の経済支援)などを通じてキューバ支援を行った。
その関係は1991年のソ連崩壊まで続いたものの、ソ連崩壊により冷戦が終結したことでバーター貿易も経済支援もストップしたため近年は深刻な経済状態が続いており、その為にいかだ等を使用して経済亡命する事件が後を絶たず、カストロのみならず国家全体の悩みの種となっている。この様な経済面での失政から、「革命家は年金をもらってまで生きるようなことはしない。私はマルクスやエンゲルスやレーニンと一緒に地獄に落ちるだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に較べれば何でもない」と語ったこともある。
なお、革命後に土地の国有化を推進し、その一環として実家の農園も取り上げたため、実母から絶縁され、娘はアメリカ・マイアミに亡命している。
宗教政策
キューバはスペインの植民地だったこともあり、国民の大半はもともとキリスト教徒(カトリック)であったが、社会主義革命を標榜するカストロは頑なな無神論者で、キリスト教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに入れるなどの宗教弾圧政策を行った。ローマ教皇ヨハネ23世は1962年1月3日にカストロを破門した。これは1949年にピウス12世が発した法令によるものであったが、カトリック信徒たりつづけることを以前から放棄していたカストロにとってこの破門は重要な出来事ではなく、カトリック教徒によるカストロへの支援を妨害するために行われたと予想されたが、そうであったとする証拠はほとんど無い。
ヨハネ・パウロ2世とカストロの関係は以前の教皇との関係と比べると多少よかった。1992年にカストロはキリスト教徒に対する融和策を導入した。ヨハネ・パウロ2世はアメリカによるキューバへの通商停止に対して「不正で、倫理的に承諾しがたい」と非難を行い、その後バチカンとカストロの関係は改善する。カストロは1996年11月にはバチカンを表敬訪問しヨハネ・パウロ2世に謁見。事実上宗教弾圧政策を放棄した。1998年になるとヨハネ・パウロ2世がキューバを訪問する。これはローマ教皇による初めてのキューバ訪問であった。教皇は訪問がキューバにおけるカトリック教会の建設促進が目的であったと強調し、政治的問題への関係を避けたが、カトリック学校の開設許可のために政府による教育規制の撤廃と、キューバ国内の病院で行われている妊娠中絶を批判した[1]。教皇の訪問後、キューバ政府はクリスマスを再び休日とし、宗教的行事の公然実施を認めた。
2005年4月のヨハネ・パウロ2世の死去時には、カストロはハバナ大聖堂でのミサに参列した。それは1959年に妹の結婚式に出席して以来46年ぶりのことであった。ミサを指揮した枢機卿ジャイム・オルテガはダーク・スーツを着たカストロを歓迎し、「私たちの教皇ヨハネ・パウロ2世の死がキューバで心より悼まれた」ことに対して謝意を表した[2]。
亡命者問題
1980年3月28日、亡命希望者を乗せたバスがハバナのペルー大使館の門を突破した。続く48時間に10,000人以上のキューバ人が大使館に逃げ込んだ。カストロは4月20日にマリエルの港からボートで出国できることを発表する。亡命希望者達はマリエルからボートで出国を始め、彼らは「自由小艦隊 freedom flotilla」として知られるようになる。アメリカ沿岸警備隊によると、9月26日にマリエルが閉鎖されるまで、124,776人のキューバ人が出国したとされる。
マリエルから出国したキューバ人の大多数は正当な亡命希望者であったが、カストロはおよそ20,000人の犯罪者および精神障害者を出国させる機会としてこの事件を利用したとされる。
一般的なイメージとエピソード
経済政策面などでは決して評価が高いとは言えない面はあるが、私利私欲に安易に振り回されない強固な信念の持ち主として、他の共産主義国家の独裁者たちとは違って、今なお賛否両論が別れる珍しい人物である。
共産主義指導者としての批評
2006年に、アメリカのワシントン・ポスト紙の付録誌「パレード」の『世界最悪の独裁者』という特集記事で、第15位に選出されるなど、アメリカや中南米諸国においては「社会主義かぶれの独裁者」として批判を受けることも多いものの、「中南米を植民地のように扱うアメリカにかたくなに抵抗し続けるヒーロー的な存在」として、容共的な人々のみならず反共産主義者の間においても心理的な支持者が多いと言われている。
特にベネズエラのウゴ・チャベスは、フィデルを師匠のように敬愛している他、ボリビアのエボ・モラレス大統領とも友好関係にある。政治家以外ではサッカー選手のディエゴ・マラドーナと親交があり、同国出身のチェ・ゲバラと共に彼の左派発言の土台を作ったとされている。国内においても、独裁者として君臨しているにもかかわらず同様な理由からカリスマ的な人気が根強くある。 ちなみに、カストロは中華人民共和国の毛沢東のことを「クソ野郎」と呼び、キューバ危機の際自分にまったく相談せずにミサイル撤去に応じたフルシチョフが失脚したのを聞き、鏡を叩き割って罵ったと言われている。
独裁ゆえに権力に依存してしまいがちな他の独裁国家の指導者と違い、血族であるものの自らの政治指導が困難とみなすと潔く権力の移譲を表明する柔軟さを高く評価されることもある。(血族で唯一政治家である実弟のラウル・カストロはモンカダ兵営襲撃事件からの仲間である)事実、彼は非常に自分が美化されることに神経質で独裁国家によくある公共の場における指導者賛美のプロパガンダが一切存在せず、むしろ自分がTシャツのプリントや絵画に描かれることを嫌っている(ただし、彼の代わりにチェ・ゲバラを讃えるモニュメントは非常に多い)。
共産主義に対して極めて真摯な考えを持ち、自身がアメリカのフォーブスの世界長者番付、君主・独裁者部門に9億ドルの財産を持つとして7位にランクインされたことに激怒し、「気分が悪くなる報道だ。なぜ、こんなバカバカしい記事に対して、自分を弁護しなければならないのか」「もし誰かが、私の口座が国外にあって1ドルでも預けてあると証明するなら、私は議長を辞める」と発言した。アメリカのメディアはほぼすべてが反カストロであるためたびたび大病を患った、大怪我をしたなどと書かれることがある。
葉巻と長時間演説
キューバの最大の特産物で、自らの好物でもある高級葉巻を革命闘争時代から常に欠かさなかったことから、葉巻愛好家の間では象徴的な存在であった。しかし、自身の健康と、国民に禁煙の重要さを説くため、1986年に禁煙宣言を出し自ら禁煙している。なお、2006年7月31日、声明を出し、「腸に急性の問題が発生、出血が続いている」ため外科手術を受けたと発表した。
カストロは長時間の演説をすることでも有名で、数時間に及ぶスピーチも一般的だという。かつて党大会で10時間以上に及ぶ政治報告を行ったこともある。本人も自分の演説が長いことを自覚している模様で、とあるパーティでスピーチに立った際、冒頭で「大丈夫、今日は早く終わらせるから」とジョークを言い、出席者を笑わせたことがある。しかし、近年では健康状態の悪化でそうした長時間の演説をすることも少なくなっている。
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