革命家の生き様 /
エンゲルス
フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820年11月28日 - 1895年8月5日)は、ドイツ出身のジャーナリスト、実業家、共産主義者、思想家、革命家、国際的な労働運動の指導者。カール・マルクスと協力して科学的社会主義の世界観を構築、労働者階級の歴史的使命を明らかにし、労働者階級の革命による資本主義がもたらした発達した生産力の継承と資本主義そのものの廃絶、共産主義社会の構築による人類の持続的発展を構想し、世界の労働運動、革命運動、共産主義運動の発展に指導的な役割を果たした。
エンゲルスは紡績産業で成功を収めたドイツ人経営者の長男として、バルメン・エルバーフェルト(現在のヴッパータール)に生まれた。青年期は、学問が優秀でありながら、書斎に引きこもることを好まない、活発で、社交的で、好奇心の旺盛な青年であった。エンゲルスは、封建的遺習の残る地域社会に反発を覚えながらも、弟と、特に母と妹に対しては終生愛情を持ち続けた。
エンゲルスの父は、マンチェスターにある自分の綿工場に従事させるために、彼をイギリス帝国に送った。そこで彼は、都市の広範囲に拡がった貧困に衝撃を受けた。エンゲルスは都市の貧困の中で暮らす人々の生活の中に入り込み、取材と調査を進め、都市の人口やその状態の詳細などを考察した報告を執筆した。この報告が、後に1845年にCondition of the Working Class in England in 1844 として出版され、カール・マルクスによって労働者階級に関する歴史的な文献として極めて高い評価を与えられることとなった『イギリスにおける労働者階級の状態』である。エンゲルスはすでにこの頃より、持ち前の好奇心と行動力によって活発な取材を展開し、ジャーナリストとしての才を示している。
1842年にマルクスと初めて面会した時は、マルクスの誤解もあって、そっけないものであった。その後の交信によって、二人は再会し、お互いが資本主義に関する同じ考え方を共有していることを認識し、仕事面でも親密な関係を築いていった。
1845年、エンゲルスは、後にパリでカール・マルクスによって編集、出版される『独仏年誌』(Franco-German Annals)という雑誌に、当時最先端の経済学であった古典派経済学を批判的に検討した自らの論文「国民経済学批判大綱」を寄稿した。この論文は、その執筆当時においては経済学の分野の研究においてマルクスに先んじていることを示しており、マルクスが経済学の道へ本格的につき進む契機となるとともに、のちのマルクスによって、経済学に対する歴史的パースぺティブから、その歴史的価値を高く評価された。
1845年1月、マルクスがフランス政府当局から強制国外退去を命じられた後、二人はヨーロッパの他の国よりも比較的表現の自由が保証されていたベルギーに活動の場を移した。1846年1月、エンゲルスとマルクスはブリュッセルにおいて、来るべき革命期に備えヨーロッパ各地の社会主義運動を団結させることを狙いとして、共産主義通信委員会(Communist Correspondence Committee)を設立した。マルクスの思想に影響を受けたイギリスの社会主義者たちが、自分たちで新しく組織を形成した共産主義者同盟(1847年 - 1850年)と呼ばれる会議をロンドンで開き、エンゲルスは代表として出席、その成熟した活動の戦略の形成に大きな影響を与えた。
1848年、エンゲルスとマルクスは共産主義の概要に関する大衆的なパンフレットを執筆した。エンゲルスの「共産主義の原理」に基づいて書かれたその12,000語あまりのパンフレットは6週間で完成、『共産党宣言』と題されたこの文献は1848年2月に出版された。同年3月、エンゲルスとマルクスはベルギーを追放されると、ドイツのケルンに移り、急進的な新聞『新ライン新聞』(the New Rhenish Gazette)を発刊した。
1849年までに、二人は大陸各国から追放され、やむなくイギリスに渡った。プロシア当局はイギリス政府に対して、エンゲルスとマルクスを追放するように圧力をかけたものの、当時の英国首相ラッセルは表現の自由に関してリベラルな考え方を持っていたためその要請を拒否した。
1848年]の革命の機運が収束しヨーロッパの革命的情勢が後退して以降、イギリスは、エンゲルスにとって、その後の生活の拠点となった。エンゲルスは、父親の工場のあるマンチェスターでエルメン・アンド・エンゲルス商会の経営に参画することとなった。ビジネス人としてのエンゲルスは非常に有能であった。その堪能な数ヶ国語の言語を活用して会社の発展に貢献し、最終的には共同経営者の地位にまで上り詰めた。地元経済界の交流もそつなくこなし、経営者の間ではエンゲルスは酒のよくわかる、乗馬好きの快活な大男(エンゲルスは当時としても背が高かった)とみなされていた。昼間は工場経営に従事する一方、夜は科学的社会主義の研究を進めた。このようなマンチェスター時代の「二重生活」は、約20年間に及ぶこととなったが、その間に得た報酬の少なくない部分をマルクスに仕送り、生活を支援した。亡命者として政府の監視の下貧困の極みにあったロンドンのマルクスとその家族の生活を何度となく救ったのはエンゲルスの財政的支援であった。
1883年3月14日にマルクスが死去、葬儀は家族とエンゲルスら友人で計11人で行なわれた。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として残されている。
マルクスの死後、エンゲルスは、『資本論』に関するマルクスの遺稿の編集、それまでのマルクスとエンゲルス自身の著作の諸言語への翻訳に尽力した。マルクスの主著『資本論』の第2巻および第3巻の刊行は、エンゲルスの知力と実務力なしには為しえなかった。遺稿は、膨大な量にのぼり(一説では数㎥にのぼったともいわれる)、その筆跡は解読が難しいもので、しかもその内容は著作としての完全な筋道を為していない部分が多かった。内容の難しさのみならず、原稿が未完成であったことも、編集を困難にした。エンゲルスは、これらマルクスの遺稿を、晩年の視力の衰えと闘い、激務の合間を縫いながら、編集した。長く厳しい数年にわたる編集作業のすえ、『資本論』第2巻は1885年に、第3巻は1894年に刊行、マルクスの「遺産」を世に送り出した。エンゲルスの最晩年の大部分は、専ら『資本論』刊行という歴史的事業に捧げられた。
この間、エンゲルスは、喫緊の政治情勢に対応するために、労働者階級の組織に助言と助力を与えながら、自分が構想を温めていたいくつかの著作(例えば、「自然の弁証法」)についてはその著述を諦めている。
エンゲルスは単なる『資本論』の編集者、マルクスの遺稿の整理執行人ではなかった。編集の最中に現れるマルクスの理論の剽窃、中傷、誤解に対しては論陣を張った。資本主義の最新の発展段階の諸現象を分析した。資本主義社会と労働者階級の最新の発展を踏まえつつ、それまでの自分とマルクスの活動を振り返り、未来社会への道筋の新しい見地を提示した。エンゲルスの最晩年の到達は、『家族、私有財産、及び国家の起源』『フォイエルバッハ論(ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結)』「エルフルト綱領草案批判」ほか多くの著述と、マルクスの死後、多くの人物に対して語られたエンゲルスの書簡の中に表現されている。
諸国で拡大する労働運動に指導的役割を担いながら、マルクスの思想を文献として後世に残したエンゲルスは、『資本論』第3巻をようやく仕上げて約1年のちの1895年8月5日、ロンドンで死去した。荼毘にふされた後、遺灰は、みずからが祀り上げられることを好まなかったエンゲルスの遺言により、イギリス南部のドーバー海峡に面する風光明媚な彼のお気に入りの地イーストボーンの沖合いに散骨された。
エンゲルスは紡績産業で成功を収めたドイツ人経営者の長男として、バルメン・エルバーフェルト(現在のヴッパータール)に生まれた。青年期は、学問が優秀でありながら、書斎に引きこもることを好まない、活発で、社交的で、好奇心の旺盛な青年であった。エンゲルスは、封建的遺習の残る地域社会に反発を覚えながらも、弟と、特に母と妹に対しては終生愛情を持ち続けた。
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1842年にマルクスと初めて面会した時は、マルクスの誤解もあって、そっけないものであった。その後の交信によって、二人は再会し、お互いが資本主義に関する同じ考え方を共有していることを認識し、仕事面でも親密な関係を築いていった。
1845年、エンゲルスは、後にパリでカール・マルクスによって編集、出版される『独仏年誌』(Franco-German Annals)という雑誌に、当時最先端の経済学であった古典派経済学を批判的に検討した自らの論文「国民経済学批判大綱」を寄稿した。この論文は、その執筆当時においては経済学の分野の研究においてマルクスに先んじていることを示しており、マルクスが経済学の道へ本格的につき進む契機となるとともに、のちのマルクスによって、経済学に対する歴史的パースぺティブから、その歴史的価値を高く評価された。
1845年1月、マルクスがフランス政府当局から強制国外退去を命じられた後、二人はヨーロッパの他の国よりも比較的表現の自由が保証されていたベルギーに活動の場を移した。1846年1月、エンゲルスとマルクスはブリュッセルにおいて、来るべき革命期に備えヨーロッパ各地の社会主義運動を団結させることを狙いとして、共産主義通信委員会(Communist Correspondence Committee)を設立した。マルクスの思想に影響を受けたイギリスの社会主義者たちが、自分たちで新しく組織を形成した共産主義者同盟(1847年 - 1850年)と呼ばれる会議をロンドンで開き、エンゲルスは代表として出席、その成熟した活動の戦略の形成に大きな影響を与えた。
1848年、エンゲルスとマルクスは共産主義の概要に関する大衆的なパンフレットを執筆した。エンゲルスの「共産主義の原理」に基づいて書かれたその12,000語あまりのパンフレットは6週間で完成、『共産党宣言』と題されたこの文献は1848年2月に出版された。同年3月、エンゲルスとマルクスはベルギーを追放されると、ドイツのケルンに移り、急進的な新聞『新ライン新聞』(the New Rhenish Gazette)を発刊した。
1849年までに、二人は大陸各国から追放され、やむなくイギリスに渡った。プロシア当局はイギリス政府に対して、エンゲルスとマルクスを追放するように圧力をかけたものの、当時の英国首相ラッセルは表現の自由に関してリベラルな考え方を持っていたためその要請を拒否した。
1848年]の革命の機運が収束しヨーロッパの革命的情勢が後退して以降、イギリスは、エンゲルスにとって、その後の生活の拠点となった。エンゲルスは、父親の工場のあるマンチェスターでエルメン・アンド・エンゲルス商会の経営に参画することとなった。ビジネス人としてのエンゲルスは非常に有能であった。その堪能な数ヶ国語の言語を活用して会社の発展に貢献し、最終的には共同経営者の地位にまで上り詰めた。地元経済界の交流もそつなくこなし、経営者の間ではエンゲルスは酒のよくわかる、乗馬好きの快活な大男(エンゲルスは当時としても背が高かった)とみなされていた。昼間は工場経営に従事する一方、夜は科学的社会主義の研究を進めた。このようなマンチェスター時代の「二重生活」は、約20年間に及ぶこととなったが、その間に得た報酬の少なくない部分をマルクスに仕送り、生活を支援した。亡命者として政府の監視の下貧困の極みにあったロンドンのマルクスとその家族の生活を何度となく救ったのはエンゲルスの財政的支援であった。
1883年3月14日にマルクスが死去、葬儀は家族とエンゲルスら友人で計11人で行なわれた。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として残されている。
マルクスの死後、エンゲルスは、『資本論』に関するマルクスの遺稿の編集、それまでのマルクスとエンゲルス自身の著作の諸言語への翻訳に尽力した。マルクスの主著『資本論』の第2巻および第3巻の刊行は、エンゲルスの知力と実務力なしには為しえなかった。遺稿は、膨大な量にのぼり(一説では数㎥にのぼったともいわれる)、その筆跡は解読が難しいもので、しかもその内容は著作としての完全な筋道を為していない部分が多かった。内容の難しさのみならず、原稿が未完成であったことも、編集を困難にした。エンゲルスは、これらマルクスの遺稿を、晩年の視力の衰えと闘い、激務の合間を縫いながら、編集した。長く厳しい数年にわたる編集作業のすえ、『資本論』第2巻は1885年に、第3巻は1894年に刊行、マルクスの「遺産」を世に送り出した。エンゲルスの最晩年の大部分は、専ら『資本論』刊行という歴史的事業に捧げられた。
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