革命家の生き様 /
ゲバラ
チェ・ゲバラ(Che Guevara)、本名エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna, 1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれのマルクス主義革命家で、キューバのゲリラ指導者。「チェ」はアルゼンチンのスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「ねぇ君」などと相手に呼びかけるときに使う言葉に由来するあだ名である。そのため、ラテンアメリカでは通常「チェ」もしくは「エル・チェ」(elは英語のtheに相当する定冠詞)と呼び、「チェ・ゲバラ」と呼ぶことは少ない。
幼年期
1928年アルゼンチン第二の都市ロサリオで誕生する。父はエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。1824年にシモン・ボリーバル、アントニオ・ホセ・デ・スクレらのラテンアメリカ解放軍とアヤクーチョで戦ったペルー副王、ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。両親は保守的な慣習にとらわれない比較的リベラル(liberal)な思想の持ち主であった(母のセリアは無神論者であった)。未熟児として生まれたゲバラは肺炎を患い、2歳にして重度の喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数度移住している。幼い頃のゲバラはけいれんを伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。しかしゲバラはサッカーやラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を一生苦しめた。
青年期
ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年に年上の友人、アルベルト・グラナードと共にオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験し、南米各地の状況を見聞するうちにマルクス主義に共感を示すようになった(このことは著作『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、後にこれを原作として映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』も制作された)。
1953年に大学を卒業したわずか25日後、友人のカルロス・ペレルと共に再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命の進むボリビアを旅した後、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ(社会主義とする見方もある)政権下のグアテマラに行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くと共に、彼女と結婚する。しかし、アメリカ企業(ユナイテッド・フルーツ)による搾取からの経済的独立や、インディオの復権など、グアテマラ革命と呼ばれるほどの急進的な改革を進めていたアルベンス政権が、CIAに後押しされた反抗勢力に倒されると(PBSUCCESS作戦)、ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評したグアテマラの革命政権は崩壊した。この出来事がきっかけとなり、共産主義革命を本気で志すようになったようである。
妻のガデアと共に、失意と怒りを抱いてメキシコに移る。1955年7月、この地に亡命中の反体制派キューバ人のリーダーである、フィデル・カストロと出会う。キューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、このとき、一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。こうしてスペイン内戦の共和派の生き残りだったアルベルト・バーヨ中佐の訓練を受けて、キューバ上陸への準備が進んでいった。
革命家ゲバラ
1958年11月ゲバラは妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単身キューバへ向かう。1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は8人乗りのレジャーボート「グランマ号(Granma)」に乗り込んだ。しかし収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、カミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった。
上陸後、反乱軍はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図った。その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局を設立するなど、政府軍との戦闘の中でゲバラはその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を如何なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。上陸から1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、ゲバラはカミーロやラウルらを差し置き、カストロから第2軍のコマンダンテ(司令官)に任命され、指揮権と少佐の階級を与えられ、名実共にカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。
1958年12月29日にはこの第2軍を率いてキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。多数の市民の加勢もあり、これを制圧し、首都ハバナへの道筋を開いた。そして1959年1月1日、将軍フルヘンシオ・バティスタがメキシコへ亡命し、カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。ゲバラは闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の閣僚となるに至った。なおこの年には日本にも訪れている。
政治家ゲバラ
革命達成の一ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、およそ600人が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断したのは、グアテマラ革命の失敗が、軍内部のアルベンスへの内部の裏切りだったからであると後にゲバラは語っている。6月には通商大使として独立したばかりのアジア・アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。農地改革と企業の国有化を進めた。
1960年8月6日、カストロがアメリカ資本から成る石油関連産業を接収、国有化する。これに対してアメリカはキューバへの経済封鎖を行った。翌1961年10月、ゲバラは工業相に就任する。経済封鎖による資源不足、さらに社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ詰み等、積極的にボランティアに参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、理想を抱くゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。
1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月24日、アルジェリアで行われた「アジア・アフリカ経済セミナー」において演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。3月に帰国後、キューバ政府はソビエトから「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告を受ける。これを受けてゲバラはカストロにキューバの政治の一線から退く事を伝え、カストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。この事はしばらくカストロの側近以外には知らされず、半年後の10月3日のキューバ共産党大会においてカストロが手紙を読み上げたことで、初めて世人に知られる事となった。
日本来訪
1959年7月15日にゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本に訪れた。当時の日本ではゲバラの知名度はなく、日本のメディアに"カストロ・ヒゲ[1]"と揶揄され、主要メディアはその動向を報じなかった。7月23日には午前中に愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープの製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために帝国ホテルで池田勇人通産相に15分間の会談を行ったり、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際に、当初は翌日に神戸の川崎造船所を視察後、市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、広島が大阪から遠くない事を知り、オマール・フェルナンデス大尉と在日キューバ大使のアルスガライ大使を伴いに宿を抜け出して夜行列車で広島に向かった。25日に広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れた。
日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結し、現在も継続中である。
再び革命の戦いへ
キューバを離れたゲバラは、コンゴ民主共和国に渡り革命の指導を試みたが、コンゴの兵士達の士気の低さに失望し、1年後秘密裏にキューバに帰国する。
カストロとの会談の後、新たな革命の場にかつてボリビア革命が起きたものの、その後、レネ・バリエントスが軍事独裁政権を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選び、1966年11月、ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。
独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、ボリビア革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たず、さらに、元ドイツの親衛隊のクラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたアメリカのCIAから武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。
1967年10月8日、ゲバラは20名前後のゲリラ部隊とともに行動、ボリビア・アンデスのチューロ渓谷の戦闘で、政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。捕らえられたゲバラと部隊の指揮を務めていたボリビア人のウィリー(en:Simeon Cuba Sarabia)は渓谷から7キロほど南にあるイゲラ村に連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバージェ・グランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラ村で午前10時に電報「パピ600(ゲバラを殺せ)」の電文を受信。処刑[2]は午後0時40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹[3]にM1自動小銃で射殺された後、ゲバラは政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹[4]が右足の付け根と左胸、首の根元部分に計3発撃ったが失敗し、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。
最期の言葉は、射殺を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ。」である。
ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛、本隊、後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。
その後の影響と「帰国」
チェ・ゲバラの生涯と思想は西側の若者や革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷されるシンボルとなった。南米の大学では、現在でもゲリラ時代のチェの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。その他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグにゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある(日本では浦和レッズのサポーターなど)。またロック・ミュージックにおいても影響を与え、一部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使用している(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのTシャツ、ステッカーなど)。
1997年、死後30年にしてゲバラの遺骨がボリビアで発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、彼の遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。フィデル=カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。ゲバラの遺体は霊廟に葬られた。
思想的にはラテンアメリカ解放の英雄、シモン・ボリーバル、ホセ・デ・サン=マルティン、ホセ・アルティーガス、ホセ・マルティ、アウグスト・サンディーノらのアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、同時代に同じ南米で生きたチリの革命家サルバドール・アジェンデとは、お互いを敬愛し続けたといわれた。
今日でもチェ・ゲバラは中南米を始めとした第三世界では絶大な人気を誇るカリスマである(特にボリビアではイゲラの聖エルネストと呼ばれる事もある)。そのため、日本でも中南米の雑貨などを扱う店でチェ・ゲバラの肖像写真がプリントされたTシャツが並び、ゲバラの思想や行動を全く知らない若者がファッションの一環として着用している姿も見られる。
人物
カストロに「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評されるゲバラであるが、実際に誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」と称され、「世界で一番格好良い男」とジョン・レノンに言われている。
「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(戦争)を作れ」という彼の言葉に象徴されるように、武力闘争を圧政から逃れる唯一の道と断じ、アウグスト・サンディーノらの過去のゲリラ戦争をよく研究してゲリラ戦の手引き書である『ゲリラ戦争 La Guerra de Guerrillas』(1960年)を著した(しかし、その『ゲリラ戦争』においてすら「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」と情勢規定している)。そのまた理想主義者でもあり、工業相時代にキューバ国民の労働意欲の低さを目の当たりにしたゲバラは「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい人間』」の育成を目指し、その出現を国家展望の下敷きとした(狭義でのゲバラ主義はこれにあたる)。しかしキューバに招聘されたソ連・ヨーロッパの左翼学者達からは「理想論に過ぎる」と反発を招くと共に、現実的な政治路線を目指すキューバ新体制の中で、徐々に彼を孤立させる遠因となった。彼の直接行動主義と理想主義は、前者は一面として「戦禍を撒き散らす男」のイメージとなって各国に広まり、後年彼自身のゲリラ闘争の障害となった。一方で後者は彼の自己犠牲的な行動力と相俟って、「清廉で理想に燃えた革命家」としての肯定的なイメージを作り出す要因ともなった。
チェ・ゲバラは喘息持ちでありながらも葉巻の愛煙家として知られている。葉巻は革命家の象徴であり、ゲリラ戦での虫除けの効果もあった。また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。好物にマテ茶と呼ばれるアルゼンチンの国民的な飲み物があり、父親がマテ茶をプランテーション事業で手がけていたこともあり、幼い頃から親しんでいた。その愛着ぶりはアルゼンチン領事が彼にマテの茶葉を頑なに分け与えなかった事に対して憤慨した事からも伺える。趣味は写真撮りで「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼自身が語っている。カメラは1954年に発売されたNikon S2を愛用していたが革命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。代わりに旧ソ連製のキエフを貰った。Nikon S2は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。
エピソード
国立銀行総裁に就任した際、それまでフルネームで行うことが慣例だった紙幣へのサインに、「Che」とだけ記した。貨幣に否定的な考えから行われたものだとされる。また、金融に関して素人であるゲバラが総裁に就任した事を訝った人々が、以下のようなジョークを囁いていた。
「新政府の閣僚を決めるに際し、カストロが『誰かエコノミスタ(経済通)はいないか?』と尋ねた。連日の激務で疲労し、居眠りをしていたゲバラがこれを『コムニスタ(共産主義者)』と聞き間違えてとっさに手を挙げ、彼の国立銀行総裁就任が決まった」
実際にはこのような事実はなかったが、正式な就任発表の際には小規模ながら預金の取り付け騒ぎが起きるなど金融不安が広がった。当時の人々の動揺を率直に表したジョークといえる。
常人離れした大胆な発想と行動力で知られるゲバラだが、キューバ上陸直後に仲間の半数以上が殺害、捕縛されたにもかかわらず「俺たちは“17人も”生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」と自信満々にいってはばからないカストロを見て、悲嘆のあまり発狂してしまったのかと本気で心配してしまった。しかしその後に、情報の重要性に注目したカストロの戦略眼や、ゲバラの“捕虜は殺さない”という方針が功を奏し革命に成功した。
ボリビアのゲリラ基地入りした時にトヨタ製のジープに乗っていた。
幼年期
1928年アルゼンチン第二の都市ロサリオで誕生する。父はエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。1824年にシモン・ボリーバル、アントニオ・ホセ・デ・スクレらのラテンアメリカ解放軍とアヤクーチョで戦ったペルー副王、ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。両親は保守的な慣習にとらわれない比較的リベラル(liberal)な思想の持ち主であった(母のセリアは無神論者であった)。未熟児として生まれたゲバラは肺炎を患い、2歳にして重度の喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数度移住している。幼い頃のゲバラはけいれんを伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。しかしゲバラはサッカーやラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を一生苦しめた。
青年期
ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年に年上の友人、アルベルト・グラナードと共にオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験し、南米各地の状況を見聞するうちにマルクス主義に共感を示すようになった(このことは著作『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、後にこれを原作として映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』も制作された)。
1953年に大学を卒業したわずか25日後、友人のカルロス・ペレルと共に再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命の進むボリビアを旅した後、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ(社会主義とする見方もある)政権下のグアテマラに行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くと共に、彼女と結婚する。しかし、アメリカ企業(ユナイテッド・フルーツ)による搾取からの経済的独立や、インディオの復権など、グアテマラ革命と呼ばれるほどの急進的な改革を進めていたアルベンス政権が、CIAに後押しされた反抗勢力に倒されると(PBSUCCESS作戦)、ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評したグアテマラの革命政権は崩壊した。この出来事がきっかけとなり、共産主義革命を本気で志すようになったようである。
妻のガデアと共に、失意と怒りを抱いてメキシコに移る。1955年7月、この地に亡命中の反体制派キューバ人のリーダーである、フィデル・カストロと出会う。キューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、このとき、一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。こうしてスペイン内戦の共和派の生き残りだったアルベルト・バーヨ中佐の訓練を受けて、キューバ上陸への準備が進んでいった。
革命家ゲバラ
1958年11月ゲバラは妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単身キューバへ向かう。1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は8人乗りのレジャーボート「グランマ号(Granma)」に乗り込んだ。しかし収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、カミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった。
上陸後、反乱軍はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図った。その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局を設立するなど、政府軍との戦闘の中でゲバラはその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を如何なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。上陸から1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、ゲバラはカミーロやラウルらを差し置き、カストロから第2軍のコマンダンテ(司令官)に任命され、指揮権と少佐の階級を与えられ、名実共にカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。
1958年12月29日にはこの第2軍を率いてキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。多数の市民の加勢もあり、これを制圧し、首都ハバナへの道筋を開いた。そして1959年1月1日、将軍フルヘンシオ・バティスタがメキシコへ亡命し、カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。ゲバラは闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の閣僚となるに至った。なおこの年には日本にも訪れている。
政治家ゲバラ
革命達成の一ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、およそ600人が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断したのは、グアテマラ革命の失敗が、軍内部のアルベンスへの内部の裏切りだったからであると後にゲバラは語っている。6月には通商大使として独立したばかりのアジア・アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。農地改革と企業の国有化を進めた。
1960年8月6日、カストロがアメリカ資本から成る石油関連産業を接収、国有化する。これに対してアメリカはキューバへの経済封鎖を行った。翌1961年10月、ゲバラは工業相に就任する。経済封鎖による資源不足、さらに社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ詰み等、積極的にボランティアに参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、理想を抱くゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。
1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月24日、アルジェリアで行われた「アジア・アフリカ経済セミナー」において演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。3月に帰国後、キューバ政府はソビエトから「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告を受ける。これを受けてゲバラはカストロにキューバの政治の一線から退く事を伝え、カストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。この事はしばらくカストロの側近以外には知らされず、半年後の10月3日のキューバ共産党大会においてカストロが手紙を読み上げたことで、初めて世人に知られる事となった。
日本来訪
1959年7月15日にゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本に訪れた。当時の日本ではゲバラの知名度はなく、日本のメディアに"カストロ・ヒゲ[1]"と揶揄され、主要メディアはその動向を報じなかった。7月23日には午前中に愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープの製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために帝国ホテルで池田勇人通産相に15分間の会談を行ったり、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際に、当初は翌日に神戸の川崎造船所を視察後、市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、広島が大阪から遠くない事を知り、オマール・フェルナンデス大尉と在日キューバ大使のアルスガライ大使を伴いに宿を抜け出して夜行列車で広島に向かった。25日に広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れた。
日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結し、現在も継続中である。
再び革命の戦いへ
キューバを離れたゲバラは、コンゴ民主共和国に渡り革命の指導を試みたが、コンゴの兵士達の士気の低さに失望し、1年後秘密裏にキューバに帰国する。
カストロとの会談の後、新たな革命の場にかつてボリビア革命が起きたものの、その後、レネ・バリエントスが軍事独裁政権を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選び、1966年11月、ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。
独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、ボリビア革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たず、さらに、元ドイツの親衛隊のクラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたアメリカのCIAから武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。
1967年10月8日、ゲバラは20名前後のゲリラ部隊とともに行動、ボリビア・アンデスのチューロ渓谷の戦闘で、政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。捕らえられたゲバラと部隊の指揮を務めていたボリビア人のウィリー(en:Simeon Cuba Sarabia)は渓谷から7キロほど南にあるイゲラ村に連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバージェ・グランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラ村で午前10時に電報「パピ600(ゲバラを殺せ)」の電文を受信。処刑[2]は午後0時40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹[3]にM1自動小銃で射殺された後、ゲバラは政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹[4]が右足の付け根と左胸、首の根元部分に計3発撃ったが失敗し、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。
最期の言葉は、射殺を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ。」である。
ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛、本隊、後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。
その後の影響と「帰国」
チェ・ゲバラの生涯と思想は西側の若者や革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷されるシンボルとなった。南米の大学では、現在でもゲリラ時代のチェの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。その他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグにゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある(日本では浦和レッズのサポーターなど)。またロック・ミュージックにおいても影響を与え、一部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使用している(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのTシャツ、ステッカーなど)。
1997年、死後30年にしてゲバラの遺骨がボリビアで発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、彼の遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。フィデル=カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。ゲバラの遺体は霊廟に葬られた。
思想的にはラテンアメリカ解放の英雄、シモン・ボリーバル、ホセ・デ・サン=マルティン、ホセ・アルティーガス、ホセ・マルティ、アウグスト・サンディーノらのアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、同時代に同じ南米で生きたチリの革命家サルバドール・アジェンデとは、お互いを敬愛し続けたといわれた。
今日でもチェ・ゲバラは中南米を始めとした第三世界では絶大な人気を誇るカリスマである(特にボリビアではイゲラの聖エルネストと呼ばれる事もある)。そのため、日本でも中南米の雑貨などを扱う店でチェ・ゲバラの肖像写真がプリントされたTシャツが並び、ゲバラの思想や行動を全く知らない若者がファッションの一環として着用している姿も見られる。
人物
カストロに「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評されるゲバラであるが、実際に誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」と称され、「世界で一番格好良い男」とジョン・レノンに言われている。
「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(戦争)を作れ」という彼の言葉に象徴されるように、武力闘争を圧政から逃れる唯一の道と断じ、アウグスト・サンディーノらの過去のゲリラ戦争をよく研究してゲリラ戦の手引き書である『ゲリラ戦争 La Guerra de Guerrillas』(1960年)を著した(しかし、その『ゲリラ戦争』においてすら「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」と情勢規定している)。そのまた理想主義者でもあり、工業相時代にキューバ国民の労働意欲の低さを目の当たりにしたゲバラは「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい人間』」の育成を目指し、その出現を国家展望の下敷きとした(狭義でのゲバラ主義はこれにあたる)。しかしキューバに招聘されたソ連・ヨーロッパの左翼学者達からは「理想論に過ぎる」と反発を招くと共に、現実的な政治路線を目指すキューバ新体制の中で、徐々に彼を孤立させる遠因となった。彼の直接行動主義と理想主義は、前者は一面として「戦禍を撒き散らす男」のイメージとなって各国に広まり、後年彼自身のゲリラ闘争の障害となった。一方で後者は彼の自己犠牲的な行動力と相俟って、「清廉で理想に燃えた革命家」としての肯定的なイメージを作り出す要因ともなった。
チェ・ゲバラは喘息持ちでありながらも葉巻の愛煙家として知られている。葉巻は革命家の象徴であり、ゲリラ戦での虫除けの効果もあった。また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。好物にマテ茶と呼ばれるアルゼンチンの国民的な飲み物があり、父親がマテ茶をプランテーション事業で手がけていたこともあり、幼い頃から親しんでいた。その愛着ぶりはアルゼンチン領事が彼にマテの茶葉を頑なに分け与えなかった事に対して憤慨した事からも伺える。趣味は写真撮りで「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼自身が語っている。カメラは1954年に発売されたNikon S2を愛用していたが革命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。代わりに旧ソ連製のキエフを貰った。Nikon S2は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。
エピソード
国立銀行総裁に就任した際、それまでフルネームで行うことが慣例だった紙幣へのサインに、「Che」とだけ記した。貨幣に否定的な考えから行われたものだとされる。また、金融に関して素人であるゲバラが総裁に就任した事を訝った人々が、以下のようなジョークを囁いていた。
「新政府の閣僚を決めるに際し、カストロが『誰かエコノミスタ(経済通)はいないか?』と尋ねた。連日の激務で疲労し、居眠りをしていたゲバラがこれを『コムニスタ(共産主義者)』と聞き間違えてとっさに手を挙げ、彼の国立銀行総裁就任が決まった」
実際にはこのような事実はなかったが、正式な就任発表の際には小規模ながら預金の取り付け騒ぎが起きるなど金融不安が広がった。当時の人々の動揺を率直に表したジョークといえる。
常人離れした大胆な発想と行動力で知られるゲバラだが、キューバ上陸直後に仲間の半数以上が殺害、捕縛されたにもかかわらず「俺たちは“17人も”生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」と自信満々にいってはばからないカストロを見て、悲嘆のあまり発狂してしまったのかと本気で心配してしまった。しかしその後に、情報の重要性に注目したカストロの戦略眼や、ゲバラの“捕虜は殺さない”という方針が功を奏し革命に成功した。
ボリビアのゲリラ基地入りした時にトヨタ製のジープに乗っていた。
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