革命家の生き様 /
プラチャンダ
プラチャンダ(ネパール語: प्रचण्ड Prachanda,1954年12月11日-)はネパールの政治家、革命家、元軍人(ゲリラ)。
現ネパール首相。ネパール共産党毛沢東主義派(通称マオイスト、毛派)議長。元ネパール人民解放軍最高司令官。制憲議会議員。
演説がうまく、党内に絶大な指導力を持っている。11年にわたり政府との間で内戦を行ってきたが2006年停戦。「プラチャンダ」は「獰猛なやつ」という意味の変名である。
本名はプスパカマル・ダハール(Pushpa Kamal Dahal ネパール語:पुष्प कमल दहल)。日本では、ネパール語人名の英語表記から二重翻訳で「プスパ・カマル・ダハル」、「プシュパ・カマール・ダハール」と表記されることが一般的だが、ネパール語からの直接翻訳に従えば「プスパカマル・ダハール」または「プシュパカマル・ダハール」という表記になる。
大統領選の失敗で組閣が困難になり、一時は野党になる方針を決めたが、統一共産党、マデシ人権フォーラムとの関係が改善され、2008年8月15日、制憲議会で首相に選出され、8月18日就任式を行った。8月31日24人の閣僚からなるプラチャンダ内閣が本格的に成立した。
ネパール西部、カスキ郡、ポカラ近郊のディクルポカリ村のバフン(バラモン)の家庭に生まれた。民族的にはネパール最大民族のパルバテ・ヒンドゥーに属する。父はムクティラム・ダハール、母はバワニ・ダハール。最初の名前は「チャビラル・ダハール」。8人兄弟の長男で、1人の弟と、6人の妹がいた。
バラモン階級の出身だったが家は小作人で貧しかった。6歳のとき、マヘンドラ国王の国策により、政府に反抗的な南部のテライ平原(マデス)を思い通りに統治するため、山岳部や丘陵部の住民の移住政策がとられ、ダハール家も南部チトワン郡に移住した。しかし、チトワンでの生活は、相変わらず厳しいものであった。冷酷な金貸しが移住者の家庭を悲惨なものにしたが、政府はその窮状に手を差し伸べようとはしなかった。しかしこうした窮状の中、彼の父は自給自足的農業で大家族を支えようとした。父は彼によい教育を受けさせ、成人して「大人物」になることを望んだ。
少年時代の友人や近所の人々の記憶によれば、彼は心優しく、不正を我慢できない少年だったという。バラモンの家庭に生まれながらダリット(不可触賤民)とも交わった。
彼の寛大な性格とハンサムな風貌から学校の教師たちはその名前を「プスパカマル」(蓮の花)と名づけた。これが現在の本名である。シヴァナガルのナラヤニ・バイディア・マンディル高校の卒業試験に合格すると、彼はパタン・キャンパスで科学の中間課程を修了した。この時、共産主義に強い影響を受ける。
その後、故郷のチトワン郡に戻り、バラトプル郊外のラムプルにあるアメリカの出資で作られた農業・動物学大学に進学する。そこは学生の政治活動の温床だった。ここで農学士の称号を得る。
1976年、大学を卒業すると、ゴルカ郡のアルガットで学校の教師となり、生徒と父兄から大きな尊敬を受ける。そこで2年半すごした。生徒を教えるだけでなく、毎週一回、文盲の成人のための教室も開き、新しい農業技術を教えると共に、マルクス主義の思想も教えた。
教職を去った後、ジャジャルットで短期間アメリカの出資する農業開発プロジェクト(USAID)に参加する。その後、革命運動に専従することになる。
毛沢東主義派結成まで
1971年ネパール共産党(プシュパ・ラル派)入党。当初より武装闘争の必要性を感じていた。[6]ネパール共産党の創立者で当時毛沢東の影響を受けていたプシュパ・ラル・シュレスタの影響を受ける。
ビクラム暦2035年、チャウト・マハディベシャン(Chautho Mahadhibeshan)専従党員。ビクラム暦2036年、同党チトワン郡委員会委員に選出。ビクラム暦2038年、全ネパール青年委員会郡書記局員。ビクラム暦2040年、全ネパール青年委員会中央委員会会長。
ビクラム暦2041年、ネパール共産党マシャル派(急進的な地下政党en:Communist Party of Nepal (Mashal))中央委員会委員。ビクラム暦2042年、マシャル派政治局員。[7]西暦1989年、モハン・バイディヤ(キラン)が武装闘争の失敗で総書記を辞任し、マシャル派総書記に就任。この時の同志にはキランのほか、C.P.ガジュレル、デヴ・グルン、クリシュナ・バハドゥル・マハラなど現在毛沢東主義派の幹部になっている者もいた。マシャル派は「ネパール共産党第四会議派」と合同し、「ネパール共産党統一センター派」(en:Communist Party of Nepal (Unity Centre)、エカタ・ケンドラとも。これも地下政党)を設立。1991年、統一センター派は武装闘争に消極的なニルマル・ラマ派と積極的なプラチャンダ派の同名の二つの組織に分裂し、その一方を率いる。統一センター派の公然組織・統一人民戦線ネパールも分裂し、プラチャンダ派の公然組織の議長には「ネパール共産党マサル派」を離脱して「統一センター派」に参加したバブラム・バッタライが就任する。バッタライは後に毛沢東主義派のNo.2となる。
1995年3月、プラチャンダは自派の「統一センター」をネパール共産党毛沢東主義派(いわゆるマオイスト)に改称し、総書記に就任する。
人民戦争
バブラム・バッタライは公然組織・統一人民戦線ネパールの名でデウバ首相に40か条の要求をつきつけ、拒否されると、プラチャンダの指揮のもと1996年2月13日、ロルパ、ルクム、シンドゥリ、ゴルカの4郡で警察署などを襲い、武装蜂起を起こす。これにより同党はネパール政府との間で11年間にわたる「人民戦争」(ネパール内戦)を開始した。この戦争で、13,000人以上が死亡したとされる。
当初毛派の軍備は極めてお粗末なもので、猟銃やピストル、警察官が使うようなライフル、それにククリと呼ばれるナイフだった。グルカ兵のシンボルになっているあのナイフである。ライフルはプラチャンダ自身が買いにいったものであった。警察詰め所を次々襲い、最初の一年半で50人を殺害した。そうした実戦経験の中で次第に武力を増強していった。資金難から銀行も襲った。一方、1998年政府も警察による本格的な掃討作戦を開始し、両者の死者数はエスカレートしてゆく。2000年9月初めて郡庁所在地を襲撃。2000年12月、初めて郡レベルの人民政府を確立。
2001年、2月、インド・パンジャブ州で開かれた第二回党総会で同党議長に就任、「プラチャンダの道」(プラチャンダ・パト)といわれる運動方針を採択した。これは、「農村から都市部を包囲する」という毛沢東理論だけでは不十分だと考え、農村ゲリラと都市プロパガンダを合体させるべきだという考え方である。ペルー共産党(センデロ・ルミノソ=「輝ける道」)の影響を受けたといわれる。また、この大会で人民解放軍の正式結成が決まる。
2001年末までに24の郡で人民政府が樹立された。
11月25日国家非常事態宣言が出され、王室ネパール軍が本格的にマオイスト掃蕩に乗り出す。一方、マオイスト側も大規模な軍施設襲撃などを頻発させる。
農村地域を中心に実効支配を進め、2003年、毛派は実効支配地域は国土の7-8割を占めたと主張した。
和平と王制の打倒
2005年2月1日、ギャネンドラ国王は全権を掌握し、独裁政治を開始した。 2005年毛派は国会に勢力を持っていた7党連合とインドで会談し、十二か条の合意を達成、ともに国王の独裁政治と闘うことで合意。
2006年4月、国王の独裁に抗議する民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)が高まり、毛沢東派はカトマンズ中心に抗議行動を行う。この運動により国王は独裁制を放棄し、国王としてのあらゆる特権を失った。元首は首相が兼任することになった。「王国」という国号も廃止され、王制は形だけのものとなった。
11月21日毛派は政府との間で無期限停戦と和平を誓う包括和平協定に調印。人民戦争は終結した。両軍は国連の停戦監視のもとに置かれている。この時、政府との間に「制憲議会」を設ける約束が締結された。
2008年4月10日の制憲議会選挙で同党は220議席を獲得し第一党となった(後に内閣指名の議席が加わり、229議席になった。)。プラチャンダ自身、カトマンズの第10小選挙区に立候補し、当選している。しかし、党として過半数の議席が確保できなかったので他党との連立を模索せざるを得なかった。
5月28日の制憲議会で宿願の王制廃止が議決される。
5月31日、「毛派に対するメディアの批判は許さない」という趣旨の発言をして物議をかもした。主要メディアは呼称を「プラチャンダ」から本名「プスパ・カマル・ダハル」に切り替えて抵抗の意を表した。
首相に就任
7月21日、大統領選の決選投票で、毛派の推す共和制活動家ラム・ラジャ・プラサド・シンが落選し、その擁立をめぐってのしこりで組閣が難しくなった。プラチャンダは組閣の放棄を示唆し、[11]7月22日、正式に野党になることを決定した。しかし、大統領のラムバラン・ヤーダブがプラチャンダに「政党間の合意による政府」を組織するよう指示。政党間の合意には至らなかったが、一時は関係が険悪になっていた統一共産党、マデシ人権フォーラムとの関係が改善し、ネパール会議派が下野する方針を固めた。
プラチャンダは8月15日の制憲議会の投票で464票の大量得票で首相に選出された。対抗馬のネパール会議派のシェル・バハドゥール・デウバ元首相の得票は113票に留まった。
なお、首相就任後、プラチャンダはネパール人民解放軍の最高司令官を辞任し、制憲議会議員であるプラバカールとアナンタも副司令官を辞任した。
首相就任式にはプラチャンダとしては珍しく、スーツとトピ(ネパール帽)という出で立ちで臨んだ。
組閣は難航した。もう少しで内閣が成立するという段階で統一共産党が内閣No.2のポストを要求し入閣予定者6人の就任を保留した。
8月22日、初めての外遊として北京五輪閉会式出席のため訪中。翌日、胡錦濤国家主席、温家宝首相と会談した。ネパールの首相の初めての外遊はインドが慣例でインドは神経を尖らせた。[16] 帰国後、プラチャンダは統一共産党に譲歩し、単独の副首相ポストを与えることに同意。 8月31日、毛沢東派のほか統一共産党、マデシ人権フォーラム、人民戦線ネパール、友愛党、ネパール共産党ユナイテッド派からなる24人の連立内閣が発足した。
キャスティング・ボートを握っている統一共産党は基本的に毛沢東派を信用しておらず、また、マデシ人権フォーラムと毛沢東派はかつて殺し合いをするほど対立した過去があり、大きな不安定要因を抱えた政権ということがいえる。
さらに、今後大きな課題となってくるのは、10年間敵味方として戦ってきた人民解放軍と国軍の合体の問題である。これは、「包括的和平協定」での7党連合と毛派の間の合意事項で、プラチャンダはじめ毛派はこれに積極的であるが、国軍制服組のトップ、ルークマングド・カトワル陸軍参謀総長は公然とこれに反対している。 [18] 人民解放軍を国軍に編入すると国軍が政治化し、中立性が保てないというのがその理由である。カトワルは旧国王・ギャネンドラの側近であり、必ずしも心底からプラチャンダ政権に忠誠を誓っているとはいいきれない。にもかかわらず、プラチャンダはカトワルを更迭しないと公言している。(クーデターを恐れてのことか?)軍もまた、この政権の不安定要因になる可能性をはらんでいる。
現ネパール首相。ネパール共産党毛沢東主義派(通称マオイスト、毛派)議長。元ネパール人民解放軍最高司令官。制憲議会議員。
演説がうまく、党内に絶大な指導力を持っている。11年にわたり政府との間で内戦を行ってきたが2006年停戦。「プラチャンダ」は「獰猛なやつ」という意味の変名である。
本名はプスパカマル・ダハール(Pushpa Kamal Dahal ネパール語:पुष्प कमल दहल)。日本では、ネパール語人名の英語表記から二重翻訳で「プスパ・カマル・ダハル」、「プシュパ・カマール・ダハール」と表記されることが一般的だが、ネパール語からの直接翻訳に従えば「プスパカマル・ダハール」または「プシュパカマル・ダハール」という表記になる。
大統領選の失敗で組閣が困難になり、一時は野党になる方針を決めたが、統一共産党、マデシ人権フォーラムとの関係が改善され、2008年8月15日、制憲議会で首相に選出され、8月18日就任式を行った。8月31日24人の閣僚からなるプラチャンダ内閣が本格的に成立した。
ネパール西部、カスキ郡、ポカラ近郊のディクルポカリ村のバフン(バラモン)の家庭に生まれた。民族的にはネパール最大民族のパルバテ・ヒンドゥーに属する。父はムクティラム・ダハール、母はバワニ・ダハール。最初の名前は「チャビラル・ダハール」。8人兄弟の長男で、1人の弟と、6人の妹がいた。
バラモン階級の出身だったが家は小作人で貧しかった。6歳のとき、マヘンドラ国王の国策により、政府に反抗的な南部のテライ平原(マデス)を思い通りに統治するため、山岳部や丘陵部の住民の移住政策がとられ、ダハール家も南部チトワン郡に移住した。しかし、チトワンでの生活は、相変わらず厳しいものであった。冷酷な金貸しが移住者の家庭を悲惨なものにしたが、政府はその窮状に手を差し伸べようとはしなかった。しかしこうした窮状の中、彼の父は自給自足的農業で大家族を支えようとした。父は彼によい教育を受けさせ、成人して「大人物」になることを望んだ。
少年時代の友人や近所の人々の記憶によれば、彼は心優しく、不正を我慢できない少年だったという。バラモンの家庭に生まれながらダリット(不可触賤民)とも交わった。
彼の寛大な性格とハンサムな風貌から学校の教師たちはその名前を「プスパカマル」(蓮の花)と名づけた。これが現在の本名である。シヴァナガルのナラヤニ・バイディア・マンディル高校の卒業試験に合格すると、彼はパタン・キャンパスで科学の中間課程を修了した。この時、共産主義に強い影響を受ける。
その後、故郷のチトワン郡に戻り、バラトプル郊外のラムプルにあるアメリカの出資で作られた農業・動物学大学に進学する。そこは学生の政治活動の温床だった。ここで農学士の称号を得る。
1976年、大学を卒業すると、ゴルカ郡のアルガットで学校の教師となり、生徒と父兄から大きな尊敬を受ける。そこで2年半すごした。生徒を教えるだけでなく、毎週一回、文盲の成人のための教室も開き、新しい農業技術を教えると共に、マルクス主義の思想も教えた。
教職を去った後、ジャジャルットで短期間アメリカの出資する農業開発プロジェクト(USAID)に参加する。その後、革命運動に専従することになる。
毛沢東主義派結成まで
1971年ネパール共産党(プシュパ・ラル派)入党。当初より武装闘争の必要性を感じていた。[6]ネパール共産党の創立者で当時毛沢東の影響を受けていたプシュパ・ラル・シュレスタの影響を受ける。
ビクラム暦2035年、チャウト・マハディベシャン(Chautho Mahadhibeshan)専従党員。ビクラム暦2036年、同党チトワン郡委員会委員に選出。ビクラム暦2038年、全ネパール青年委員会郡書記局員。ビクラム暦2040年、全ネパール青年委員会中央委員会会長。
ビクラム暦2041年、ネパール共産党マシャル派(急進的な地下政党en:Communist Party of Nepal (Mashal))中央委員会委員。ビクラム暦2042年、マシャル派政治局員。[7]西暦1989年、モハン・バイディヤ(キラン)が武装闘争の失敗で総書記を辞任し、マシャル派総書記に就任。この時の同志にはキランのほか、C.P.ガジュレル、デヴ・グルン、クリシュナ・バハドゥル・マハラなど現在毛沢東主義派の幹部になっている者もいた。マシャル派は「ネパール共産党第四会議派」と合同し、「ネパール共産党統一センター派」(en:Communist Party of Nepal (Unity Centre)、エカタ・ケンドラとも。これも地下政党)を設立。1991年、統一センター派は武装闘争に消極的なニルマル・ラマ派と積極的なプラチャンダ派の同名の二つの組織に分裂し、その一方を率いる。統一センター派の公然組織・統一人民戦線ネパールも分裂し、プラチャンダ派の公然組織の議長には「ネパール共産党マサル派」を離脱して「統一センター派」に参加したバブラム・バッタライが就任する。バッタライは後に毛沢東主義派のNo.2となる。
1995年3月、プラチャンダは自派の「統一センター」をネパール共産党毛沢東主義派(いわゆるマオイスト)に改称し、総書記に就任する。
人民戦争
バブラム・バッタライは公然組織・統一人民戦線ネパールの名でデウバ首相に40か条の要求をつきつけ、拒否されると、プラチャンダの指揮のもと1996年2月13日、ロルパ、ルクム、シンドゥリ、ゴルカの4郡で警察署などを襲い、武装蜂起を起こす。これにより同党はネパール政府との間で11年間にわたる「人民戦争」(ネパール内戦)を開始した。この戦争で、13,000人以上が死亡したとされる。
当初毛派の軍備は極めてお粗末なもので、猟銃やピストル、警察官が使うようなライフル、それにククリと呼ばれるナイフだった。グルカ兵のシンボルになっているあのナイフである。ライフルはプラチャンダ自身が買いにいったものであった。警察詰め所を次々襲い、最初の一年半で50人を殺害した。そうした実戦経験の中で次第に武力を増強していった。資金難から銀行も襲った。一方、1998年政府も警察による本格的な掃討作戦を開始し、両者の死者数はエスカレートしてゆく。2000年9月初めて郡庁所在地を襲撃。2000年12月、初めて郡レベルの人民政府を確立。
2001年、2月、インド・パンジャブ州で開かれた第二回党総会で同党議長に就任、「プラチャンダの道」(プラチャンダ・パト)といわれる運動方針を採択した。これは、「農村から都市部を包囲する」という毛沢東理論だけでは不十分だと考え、農村ゲリラと都市プロパガンダを合体させるべきだという考え方である。ペルー共産党(センデロ・ルミノソ=「輝ける道」)の影響を受けたといわれる。また、この大会で人民解放軍の正式結成が決まる。
2001年末までに24の郡で人民政府が樹立された。
11月25日国家非常事態宣言が出され、王室ネパール軍が本格的にマオイスト掃蕩に乗り出す。一方、マオイスト側も大規模な軍施設襲撃などを頻発させる。
農村地域を中心に実効支配を進め、2003年、毛派は実効支配地域は国土の7-8割を占めたと主張した。
和平と王制の打倒
2005年2月1日、ギャネンドラ国王は全権を掌握し、独裁政治を開始した。 2005年毛派は国会に勢力を持っていた7党連合とインドで会談し、十二か条の合意を達成、ともに国王の独裁政治と闘うことで合意。
2006年4月、国王の独裁に抗議する民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)が高まり、毛沢東派はカトマンズ中心に抗議行動を行う。この運動により国王は独裁制を放棄し、国王としてのあらゆる特権を失った。元首は首相が兼任することになった。「王国」という国号も廃止され、王制は形だけのものとなった。
11月21日毛派は政府との間で無期限停戦と和平を誓う包括和平協定に調印。人民戦争は終結した。両軍は国連の停戦監視のもとに置かれている。この時、政府との間に「制憲議会」を設ける約束が締結された。
2008年4月10日の制憲議会選挙で同党は220議席を獲得し第一党となった(後に内閣指名の議席が加わり、229議席になった。)。プラチャンダ自身、カトマンズの第10小選挙区に立候補し、当選している。しかし、党として過半数の議席が確保できなかったので他党との連立を模索せざるを得なかった。
5月28日の制憲議会で宿願の王制廃止が議決される。
5月31日、「毛派に対するメディアの批判は許さない」という趣旨の発言をして物議をかもした。主要メディアは呼称を「プラチャンダ」から本名「プスパ・カマル・ダハル」に切り替えて抵抗の意を表した。
首相に就任
7月21日、大統領選の決選投票で、毛派の推す共和制活動家ラム・ラジャ・プラサド・シンが落選し、その擁立をめぐってのしこりで組閣が難しくなった。プラチャンダは組閣の放棄を示唆し、[11]7月22日、正式に野党になることを決定した。しかし、大統領のラムバラン・ヤーダブがプラチャンダに「政党間の合意による政府」を組織するよう指示。政党間の合意には至らなかったが、一時は関係が険悪になっていた統一共産党、マデシ人権フォーラムとの関係が改善し、ネパール会議派が下野する方針を固めた。
プラチャンダは8月15日の制憲議会の投票で464票の大量得票で首相に選出された。対抗馬のネパール会議派のシェル・バハドゥール・デウバ元首相の得票は113票に留まった。
なお、首相就任後、プラチャンダはネパール人民解放軍の最高司令官を辞任し、制憲議会議員であるプラバカールとアナンタも副司令官を辞任した。
首相就任式にはプラチャンダとしては珍しく、スーツとトピ(ネパール帽)という出で立ちで臨んだ。
組閣は難航した。もう少しで内閣が成立するという段階で統一共産党が内閣No.2のポストを要求し入閣予定者6人の就任を保留した。
8月22日、初めての外遊として北京五輪閉会式出席のため訪中。翌日、胡錦濤国家主席、温家宝首相と会談した。ネパールの首相の初めての外遊はインドが慣例でインドは神経を尖らせた。[16] 帰国後、プラチャンダは統一共産党に譲歩し、単独の副首相ポストを与えることに同意。 8月31日、毛沢東派のほか統一共産党、マデシ人権フォーラム、人民戦線ネパール、友愛党、ネパール共産党ユナイテッド派からなる24人の連立内閣が発足した。
キャスティング・ボートを握っている統一共産党は基本的に毛沢東派を信用しておらず、また、マデシ人権フォーラムと毛沢東派はかつて殺し合いをするほど対立した過去があり、大きな不安定要因を抱えた政権ということがいえる。
さらに、今後大きな課題となってくるのは、10年間敵味方として戦ってきた人民解放軍と国軍の合体の問題である。これは、「包括的和平協定」での7党連合と毛派の間の合意事項で、プラチャンダはじめ毛派はこれに積極的であるが、国軍制服組のトップ、ルークマングド・カトワル陸軍参謀総長は公然とこれに反対している。 [18] 人民解放軍を国軍に編入すると国軍が政治化し、中立性が保てないというのがその理由である。カトワルは旧国王・ギャネンドラの側近であり、必ずしも心底からプラチャンダ政権に忠誠を誓っているとはいいきれない。にもかかわらず、プラチャンダはカトワルを更迭しないと公言している。(クーデターを恐れてのことか?)軍もまた、この政権の不安定要因になる可能性をはらんでいる。
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![]() MSN産経ニュース | 【日々是世界 国際情勢分析】レバノンの内憂外患 MSN産経ニュース 通りにはナスララ師のポスターが張られ、ヒズボラの地盤であることがうかがわれる (AP) 政治的に不安定な情勢が続いている中東の国レバノンで、再び大規模な軍事衝突が発生するとの懸念が高まっている。国内では、2005年に起きたラフィク・ハリリ元首相暗殺事件を ... |



